頑張らない生き方をしよう。努力をやめて、気を楽にして、これまでの頑張る人生から頑張らない人生にシフトしよう。
スピリチュアル界隈ではそのような表現がよく出てくる。
その是非を問うというよりは、むしろ是であることが少し腑に落ちたというお話。
頑張らずに生きていきましょう、といっても抵抗があるのは、「そうはいっても、今頑張ってることいきなり止められないし」というような状況だろう。
実際、じゃあ仕事頑張るのやめますといって突然仕事を辞めても生活に困るし、家事頑張るの止めますといっても結局は家族や自分にツケが回ってくる。
とりあえずやめてみることでスコトーマが外れ、道が見えてくるという苫米地さん的な考えもあるので間違いとは言えないが、自分だけの問題ではなかったりもするので中々そこまで踏み出せないのも事実だ。
つまり頑張らないというのは、「今までやっていたことをやめる」「なにもしなくなる」という風に認識されがちである。
しかしこの認識が誤っていた。「頑張らない」には異なる解釈があるようだ。
頑張らないとは、ただ何かをやめることではなく、自分を認める姿勢、自分が事に当たる時の姿勢の話なのだ。
それを教えてくれたのが、最近見ている中村咲太さんの動画。
この中で彼が言っていることを要約すると、「頑張らないとは怠けることではない」「行動はする。その時の意識、気持ちが頑張らないということ」という内容である。
そもそも人が頑張る理由というのは、「現状を良くしたい」とか「人から認められたい」といったことではないだろうか。得てしてそれは、「今の自分のままではダメだ」という背景につながっている場合がある。
そのような意識ではエネルギーが弱いし、引き寄せの法則的にも「ダメだ」を繰り返しやすく、ずっと頑張らないといけないということになる。
だから、「もう大丈夫」「自分は大丈夫」「自分は神である」という意識に立ち戻る必要がある。そこからの行動は、ただ楽しんでやる、に変わる。
かの小林正観さんも、全体を通して発信していたメッセージは「受け入れること」そして「頑張らない、努力しない」であった。
そんな事を言いつつ本人は年間何百回も講演されていて、それ頑張ってるんじゃないの?と思ってしまうところだが、正観さんは頑張る意識で講演をしていなかった。講演会はダジャレばかり、使命感のなさは日本一だと言っていた。
その背景として「宇宙のシナリオがある」「それを受け入れる」という意識があり、だからこそ「自分は大丈夫」「自分は神で、宇宙の一部である」というような感覚にもなり得るのだろう。
ちなみに若干話は飛ぶが、YouTube講演家の鴨頭さんのアプローチはオンラインサロンにて「究極の依存先を作る」だった。
子供はなぜ失敗ばかりしても何度も挑戦できるか。それは、心配して励ましていつでも味方になってくれる母親の存在=依存先があるからである。鴨頭さんのオンラインサロンでは心良き仲間が集まり、みんなで励まし合い、何があっても大丈夫だという究極の依存先なのだ、という。
アプローチは違えど、目指している状態は同じだ。大丈夫だ、と思えることが一つのゴールなのだろう。
それにしても、こう考えると一般の常識とは逆説的で面白い。
何かを得たかったら、頑張って努力して手に入れるべし、というのが普通の考えである。
しかしこの考えに照らし合わせると、何かを得たかったら、「得られなくても大丈夫」と考える。一旦、諦める。そこからの行動はエネルギーが強い。だから、得られやすい。
昔から「生活のかかったギャンブルは成功しない」とも言う。このような時は大丈夫とは考えづらい。そして、大丈夫から遠いほどに執着が生まれてしまう。
まさに「執着を手放す」とは「大丈夫と思える」状態を指すのだろう。ある意味では「足るを知る」という格言にもつながっていることだ。
頑張らないとは怠けることではなく、自由な意識で行動するということ。大丈夫であると理解すること。
アプローチは様々あるので、自分に合った表現をしてくれる師を見つけると良い。共通して目指すのは、「自分はそのままでも大丈夫」という感覚を得ることなのだ。
そのようにサポートしてくれる人が増え、もっともっと生きやすい世の中になることを願ってやまない。