この話は小林正観ファンとして知っている話でしたが、講演CDで改めて聞いたものをシェアしたいと思います。
小林正観さんの娘の話。
娘さんが大学受験の時期。
偏差値は45〜50くらいで、ものすごく頭が良いというわけではなかったそうです。
それで、同程度のレベルの大学を4つほど受けた。
結果は、3つから不合格の通知が来て、1つだけ合格した。
その大学は本命ではなく、滑り止めとして受けていた大学だった。
しかも試験成績が良くて合格したのではなく、定員割れによる合格だった。
娘さんはその大学に行くことにした。
でも、もうひとつだけ受験をしたいと父親(正観さん)に相談した。
しかもその大学は偏差値68の、合格する可能性などまずない大学だった。
それでも受験したかった娘さんの理由は、
将来、いま行こうとしている大学に入った理由を「頭のいいあの大学を受けたんだけど、ダメだったので仕方なくなのよ」と言いたいからなのだとか笑
そして、その大学を受験した。
しばらくして、結果が返ってきた。
合格だった。
果たしてこれは何が起きたのでしょうか。
そしてなんと小林正観さんは、その大学に行くことを5年前から知っていたという。なので驚かなかったそうです。
学力から考えても合格するはずがない。もちろん裏口入学でもない。
しかし、未来は確定的に存在していた。
そのために奇跡が起きた…ということなのでしょう。
この話を聞いて、こう問われると思います。
じゃあ何をしても、ジタバタしても無意味なのか?
小林正観さんの答え。
半分は合っていて半分は違う。
ジタバタしたことによって、そのような結果になった。なので無意味ではない。
しかし、ジタバタするかどうかも既に決まっているので、結果は決まっている。
ここからは、私の解釈です。
条件など整っていないように見えるのに、大学に合格するという奇跡が起きた。
だから、努力するのは関係がないようだ。
これが、娘さんの一例。
一生懸命勉強して学力がついた。そして、大学に合格することができた。
だから、努力する事には意味がある。
これが、一般論。
でもこれは、どちらも本質的には同じ事なのではないだろうか。
大学に受かることが決まっていた。努力するもしないも決まっていた。奇跡が起きるのも起きないのも決まっていた。
ただ一人一人それぞれのシナリオがそのように動いて、それを体験しているだけ…
何も考えずに生きていればいいのか。おそらくそれでよい。考えるも考えないも自由で、でもそれも決まっていて、予定通り。
こういう話に辿り着く人は、何も考えなくていいですよ…という道が与えられているので、それでいいのかもしれない。
考えまいとしても、シナリオ通りであれば考える羽目になるので、何も気にする必要はないのかもしれない。
あっちがいいとか、こっちがいいとか、好きなように選んでいいけれども、結果はもう気にしなくてよい。
望み通りの結果になるもの、ならないもの、色々あると思うが、全てが予定通りで、神の視点から見た時には一つも間違いがない。
というか正しいや間違いの概念すらなく、ただその一つの真実しかない。
だから信頼して、人生を楽しみましょう。
そんな風に思い切ることができたら、過去の後悔もない。未来の心配もない。余裕を持った人生を送ることができて素敵だな、と思います。